平藩

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(たいらはん)

目次

磐城平藩(いわきたいらはん)の誕生

 磐城地方を四百年以上支配していた岩城氏が関ヶ原の戦いへの不参陣を理由に領地を没収され、江戸時代の入ると磐城平藩の初代藩主として、慶長7年(1622年)に下総国(現在の千葉県)矢作(現在の香取市)4万石<1>の鳥居忠政(とりい ただまさ)が10万石で平に移されました。

 さらに、同10年に2万石を加えられ、そして磐城平藩が誕生しました。  磐城平藩は、現在の福島県いわき市平に位置していた。

**用語の意味
*<1>~万石(~まんごく)や、~石(~こく)のことを石高(こくだか)といい、その土地で収穫される米の量を表わす単位。

初代藩主・鳥居氏

磐城平藩の初代藩主は、鳥居忠政といい、忠政の父・元忠(もとただ)は徳川家康の側小姓(そばこしょう)<2>として50年仕え、その間に数々の武勲(ぶくん)<3>をあげた。

 1600年、伏見城守備の総大将として、副将内藤家長(ないとう いえなが)4万余の石田勢の猛攻に対し1800の兵で13日間死守して討ち死にし、家康の天下覇権の礎となりました。  家康は壮絶な討ち死にをした鳥居元忠、内藤家長のそれぞれの嫡子を、磐城平藩の初代、2代の領主に任命しました。初代平城主鳥居忠政は、矢作4万石から12万石に加増<4>で1602年、奥州飯野平城に入封(にゅうふう)<5>し、多くの岩城家の家臣を召抱え、現在のいわき駅北側物見ヶ丘に、大阪城をモデルとした磐城平城を築城した。

 その後、1622年に政治行政両面に良い働きをしたことを将軍家光に認められ、山形20万石の大名として栄転した。

**用語の意味
*<2>側小姓・・・武士のそばに仕えて雑用をした少年。
*<3>武勲・・・戦場でたてた手がら。
*<4>加増・・・領地を加えてふやすこと。
*<5>入封・・・領地をおさめること。

平城跡遠景 JRいわき駅より撮影

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平城跡石垣

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旧城跡

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※民有地ではない、平城跡だけを撮影しました。

2代目藩主・内藤氏

 鳥居家に代わって、内藤政長が1622年磐城平藩主として、上総国(かずさのくに)<6>佐貫4万5千石から7万石で入封しました。政長の父・家長は、初代藩主鳥居忠政の父・元忠とともに伏見城を守備し1600年に討ち死にしています。

 そして、政長は入封してから6年後に亡くなり、忠興がな内藤家2代目の平藩主となりました。すると、新田開発などに力を入れ、石高を2万石増やしました。  忠興は、増やした石高から1670年に1万石を三男・政亮(まさすけ)に分け与え湯長谷藩(ゆながやはん)が誕生しました。

 湯長谷藩家中跡は現在、いわき市立磐崎中学校になっている。

 内藤家は6代125年続いたが、6代政樹(まさき)のとき、年貢負担や災害による元文百姓一揆<7>がおき、その責任を負い日向(現在の宮崎県)延岡に1747年、7万石で移封<8>された。

**用語の意味
*<6>上総国(かずさのくに)・・・現在の千葉県
*<7>百姓一揆・・・江戸時代、米が獲れなくなると年貢を納めるのが苦しくなるため領主に対する、農民の集団的反抗運動。
*<8>移封・・・治める土地が移ること。

3代目藩主・井上氏

 1747年、平藩の内藤家が日向国延岡に移ると同時に、常陸国笠間(ひたちのくにかさま)<9>の井上家がいわき平へと移りました。そして、井上河内守正経(いのうえかわちのかみ まさつね)が3代目磐城平藩主として入封しました。正経は、磐城平藩に10年しかおらず、1756年に大阪城代<10>に栄進してしまい平での活躍は、あまり分かっていません。

*用語の意味       
**<9>常陸国・・・旧国名の一つ。現在の茨城県北東部にあたる
**笠間・・・茨城県中西部の市。
**<10>大阪城代・・・江戸幕府の職名。大阪城にあり大阪在勤の幕府諸役人の支配と、大阪城の防衛、西国諸大名の監視を職務とする。

4代目藩主・安藤氏

 1756年美濃国(岐阜県)加納(かのう)より、安藤対馬守信成(あんどうつしまのかみ のぶひら)が5万石で就封しました。さらに、磐城藩校「施政堂」(しせいどう)を開き、朱子学を主体として藩士の子弟<11>の教育を進めた。

 その後、老中(ろうじゅう)<12>となり松平定信中心に、「寛政の改革」に参画し、江戸幕府の政治に活躍しました。

 2代、3代は、病などで隠居<13>し、4代信由(のぶよし)は、江戸城西ノ丸の普請(ふしん)<14>をしました。

 5代信正(のぶまさ)は、鎖国している日本に開国を求める困難な外交問題に対処し、外交政策を進めましたが、これに不満をもつ水戸浪士などにより江戸城坂下門で登城途中襲撃され負傷し、失脚してしまいました。所領は3万石に減封されました。

 1868年戊辰戦争が始まり、幕府側として官軍を迎え討ちますが、7月、平城は落城し信正は仙台領へと逃れました。

 このとき、7代信勇(のぶたけ)は7代を継いでいましたが美濃の支邸にいました。  1869年(明治2年)磐城平藩知事につきますが、1871年の廃藩置県により平藩は消滅し、磐城平県、平県、磐前県を経て、現在の福島県になりました。

*用語の意味
**<11>子弟・・・年少者、子供や弟。
**<12>老中(ろうじゅう)・・・江戸幕府で、将軍に直属して幕政一般を統括した最高の職。
**<13>隠居・・・家督をゆずり、気ままに暮らすこと。
**<14>普請・・・建築工事・土木工事を行うこと。

関連項目

外部リンク

いわき市フィールドワーク[1]

アクセス

磐城平城-JR常磐線・いわき駅から約徒歩5分 旧城跡
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参考文献

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  • いわき平東ロータリークラブ、「平の殿さま」、いわき平東ロータリークラブ社会奉仕委員会、2006年。

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  • 福島民報社、「武者たちの舞台:ふくしま紀行城と館下巻」、福島民報社、2007年。

編集後記

平城跡は実際自分で訪れ、自分で撮影しました。城跡というだけあり、とても坂道が多くきゅうでした。  そして、平藩を紹介する上で誰でも読めるよう難しい単語の意味や、武将の名前にはできるだけ読み仮名を明記しました。


--08230Masaki Nagayama 2008年9月11日 (木) 20:48 (JST)08230Masaki Nagayama

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